<< 水蒸気の向こうはバニラの幻 Thank you for m... >>

淡い想いと撒き散らした涙を井の頭線に置き去りにして

黒田原君は、営業である。そして気付くと貧乏である。
彼は自分が貧乏であるとはあまり思っていなかった。毎日三食しっかり過ぎるほど食べていて、ちょくちょく同僚と呑みに行く。恋人とも遊びに行くし、別に生活には困っていない。いたって普通のサラリーマンだ。何より彼は恰幅が良く、入社二年目にして部長と間違われるという偉業を成し遂げた男であり、傍から見ても貧乏の気は全く感じられない。しかし、給料日前の口座残高に映し出される数字は、いつも二桁なのだ。よくもまあこんなに美しく使い切ることができると自分でも感心する。同時に心のどこかで焦ってもいる。このままでいいのだろうか。自分はこの自転車操業的人生をただ汗だくになりながらおなかを揺らしてひた走り、ハムスターが一晩中カラカラを回し続けるように、お金を稼いでは使い、稼いでは使い、稼いでは使うのか。果たしてそれが人間的な生き方だと言えるだろうか。否、言えまい。
ここで黒田原君は一大決心をした。

その日、彼は誰よりも早く出社をし、敵が現れるのを待った。そして朝の挨拶とともにだんだんとフロアのデスクが埋まる中、定時3分前にも関わらず清々しい笑顔で出社する小柄な女性を見定めた。彼はその大きな身体でずんずんとフロアを抜け、彼女の前にどんと立ちはだかる。
「おはよう、黒田原君。また少しお太りになったんじゃない」
「朝から御挨拶ですね。秋川先輩、お話があります」
「何でしょう」
「勝負をしませんか」
「かけっこならいやです」
「違います。売り上げ勝負です。今月の営業成績で勝負をしましょう」
秋川さんは一瞬その大きな瞳を更に大きく見開いてから、無言でにんまりと微笑んだ。
彼女の方が身長は小さいはずなのに、どこか見下す印象を受けるその余裕の笑みに、彼は一瞬たじろいだ。しかし、ここでひるむわけにはいかない。
「そんな無謀な勝負を挑んで君はどうするつもりなの」
「僕はお金持ちになるんです」
「ほう」
「今月の売り上げは次のボーナスに響きます。ここで素晴らしい数字を叩き出し、大量のボーナスと、秋川さんからのファイトマネーを手に入れて、今年の夏はうはうはになるという寸法です」
「なるほど、一攫千金ってやつね。でもそのおなかで大丈夫?」
秋川さんは彼のおなかをぽよぽよと突っついた。
「このおなかにつまっているのは夢と希望です!」
かくして戦いの幕は切って落とされたのである。
その日から黒田原君はいつも以上に営業に励んだ。季節は初夏。梅雨の湿気と熱気が彼を襲う。額には常に汗がつたっていた。こんなに汗をかくのに痩せないのは人類の神秘だと彼は思った。そうして日が落ちてから事務所に戻り、その日の案件数を秋川さんと比べっこする。取引金額は最終日まで言わない約束だ。
「秋川さん、今日何件回りました?」
「3件」
彼はドキドキしながらも、それを悟られないように息を深く吸い込み、低い声で言う。
「僕は5件です」
「あらあらここのところずっと君の方が多いわね」
秋川さんは感心した様子で、得意の笑顔を万遍にふりまいた。黒田原君は顔がにやけるのを抑えきれなかった。勝てるかもしれない。もしかしたら秋川さんに勝つだけではなく、営業部で一番になるかもしれない。みんなにほめられて社内で表彰されるかもしれない。そうすれば人気者だ。その噂を聞きつけた編集社に頼まれて「2年で大成する方法」という本を出版し、ベストセラーになるかもしれない。恋人も喜んで僕に結婚を申し込んでくるだろう。そして二人一緒に印税で優雅に暮らしていくのだ。彼は考えるだけで涎を垂らしそうになった。大変に素晴らしい。素晴らしすぎる。そして彼は景気づけにと呑みに行き、帰りにラーメンを食べて、コンビニで夜食を買って帰るのだ。彼の夢が膨らむほど、彼の腹も膨らむばかりである。

そして、黒田原君はいよいよ月末を迎える。
「君のおなかが伊達じゃないことが証明されると良いのだけれども」
「されますとも。この一ヶ月、僕はこの自慢のおなかに溢れんばかりの夢と希望をつめられるだけつめて営業に励んできたん」
そこまで黒田原君が喋ったところで、秋川さんは営業成績報告書を彼に突きつけた。彼女はおだやかで優しい菩薩のような微笑を浮かべていた。
目の前に並ぶ数字がそれぞれ何を意味しているのか、彼が理解するのには時間がかかり、やっと脳内で右のシナプスと左のシナプスがつながろうとしたその瞬間、彼はわぁわぁ大声をあげて、雷神のごとく走り出した。
「僕が痩せたら僕でなくなってしまうように!僕がお金持ちになったら僕でなくなってしまうんだ!」
黒田原君の夢と希望はここぞとばかりに揺れていた。

「彼は見事に惨敗だったなぁ」
「私に勝とうだなんて百年早いですよ」
「僕としても君が営業部トップになったのは誇らしかったけど。それにしても黒田原君は可哀相だ。一番歳の近い先輩がこんなに優秀じゃ大変だろうに」
私が目をくれると彼女は眩しそうに微笑んだ。
「今月私がすでに大きな案件を受注していることくらい、ちょっと調べれば分かることですよ。黒田原くんが甘いんです」
「確かに彼のおなかは美味しそうだ。夢と希望がいっぱいつまっていて」
「高尾さん、黒田原君の肩を持つんですか?」
ふくれて見せる彼女にどうしても私の頬は緩んでしまう。
「そういうわけではないけれども…今回の勝負で彼のボーナスだってぐんと上がったはずだ。黒田原君は良い営業になるだろうな」
「夢と希望だけじゃ営業はできませんよ。というわけで私はあのおなかがほどよく萎むように、ファイトマネーを分捕ってきます」
「厳しいなあ」
「これも愛です。甘くないですけどね」
[PR]
by mowmowmocha | 2010-07-20 10:56 | 火曜日
<< 水蒸気の向こうはバニラの幻 Thank you for m... >>